「いちのせき文学の蔵」開館のテープカット  2006-4-22

 言葉の力を信じて (文学の蔵会長 及川和男さん記)
  公設民営による「文学の蔵」を設立しょうとする市民運動が起きたのは、平成元 (一九八九) 年の早春であった。色川武大さんが創作に打ち込むため一関に移住された頃に、ぴたり重なっている。
 色川一関移住!のビッグニュースによる興奮が広がりはじめたと思う間もなく、急死の悲報が稲妻のごとく走った。喜んでいたわたしたちは、やりきれない電撃に身を貫かれた。
 だが、運動に不思議な力が作用した。稲妻は稲魂、あるいは稲つるびでもあったのだ。雷電と稲がつるんで穂を孕む、という古人の思想であるが、文学の蔵運動は、色川さんの死によって疑い無く加速された。
 そこへ、一関ゆかりの井上ひさしさんが「助っ人」として現れた。たまたま、かつて在籍された一関中学校の同期会に来られたのだ。一ノ関駅でお会いしたあと、わたしは一年先輩にもかかわらず、同期会の席に厚かましくも入り込んだ。このあと、井上さんの希望で、文学の蔵の関係者と色川宅を訪ね、お焼香をした。遺品の一関への寄贈の話、そして 文学の蔵への「助っ人」宣言は、色川さんの遺影の前で起きたのであった。
 翌年さっそく「井上ひさしの日本語講座」を開催した。その次の年には、一関を父祖の地とする大槻文彦の 『言海』完成百年を記念する大事業に取り組んだ。丸谷才一、大野晋、大岡信、高田宏という錚々たる方々による講演と、辞書をめぐるシンポジウムに、全国的な参加者が溢れた。わたしたちは、言葉の力の持つ求心力を強く強く感じたのであった。
 言ってみれば、稲魂も言葉の力だったのだ。その光の穂先は伸び、色川さんの遺品が一関市に寄贈された。井上講座はその後、「文章学校」「賢治を読む」「作文教室」と回を重ね、出版も起きた。
 ゆかりの島崎藤村の文学碑が建立され、島崎藤村学会の全国大会も開催された。近代の始まりにおいて、言葉と格闘し続けた藤村についての再学習は深まり、「あゝ、自分のやうなものでも、どうかして生きたい」という碑文の奥に、わたしたちは、言葉の力を信じて生きていく、という譲れぬ態度価値を発見し、そこに響き合う価値観を共有するようになったと思う。
 大世紀末ともいえる時期の運動は、国内外の激変に遭遇し、経済的困難の増大から先行きが曇る中、二〇〇〇年の「子ども読書年」を迎えた。国会が全会一致で「子ども読書年」を決議するほどに、未来からの留学生たちの言葉の力は弱々しくなっているのか、それは、大人たちの問題ではないのか、なんとかせねば、そのきっかけを創らなければ、と考え、谷川俊太郎さんを招いて詩の朗読のつどいを開催したところ、会場は入り切れないほどとなった。わたしたちは、絶望してはならないのだと思った。また、次の世代へのバトンタッチの大事さも胸に刻んだ。
 今、乏しい自力で文学の蔵ギャラリーを、わたしたちは準備している。わずか十坪の日本一ちいさな文学館ではあるが、言葉の力を信ずるものたちの拠点として、とりあえず構築しょうとする。展示するのは、ゆかり、出身の多様な文学者たちであるが、通底する「言葉の力を信じて」の生き方をメインテーマと見据えることで、さらに今後も響き合って、 たとえ細くても、息の長い運動を進めていきたいと念じっつ、同行者の増えることを切望している。(文学の蔵会報21号より)

 井上ひさしさんからのエール
 昭和24年、家の事情で山形県の南部の小さな町から、生まれて初めて奥羽山脈を越え、一関中学に転校しました。丁度、一関は水害の堤防工事で大変なとき、西部劇の舞台みたいに賑やかでした。一関中学の3年に編入しましたが、みなさんが本当に親切にしてくれまして、たった半年でしたけれども、当時の半年のつき合いで、親友が未だに4、5人おります。

 その時に、堤防沿いに飯場があって、そこにお袋と兄と弟が住んで、お袋が大建設会社の下請けの、さらにその下の土建屋の親方で、兄がそれを手伝っていました。その飯場が、実は世嬉の一さんの蔵だったんですね。すぐ、世嬉の一さんに新星映画劇場という映画観ができまして、時々モギリの手伝いをしたりして、そこに入り浸って、沢山いい映画を観ました。そういう意味で一関は、新しい友達が出来たり、映画を毎日のように観たり、大きな本屋があったりして、初めて大都会へ来たという感じがしました。初めて世の中の陽が当たる所へ出たという気がしました。

 今、一関では「文学の蔵」を設立しようというボランティア運動が盛んで、世嬉の一さんをはじめ、多くの方が参集していますが、私も家が困っていた時期にお世話になって親切にしていただいた、その時の御恩の万分の一でもお返ししようと、自分に出来ることをやらせていただいております。

 「文学の蔵」の運動がしっかり進んで行けば、一関市が全国の文学フアンのメッカにきっとなると思いますし、なるようにしなきゃいけませんが、そういう日の来ることを祈りながら、その日が来るまでみなさんと一緒にコツコツと頑張ろうと思います。

 活動15年のあゆみ
 1989 一関市の都市計画事業で取り壊しになる明治初期の3階建土蔵を惜しみ、解体材を引き取った佐藤晄僖氏の提起で、文化的活用方法を論議する中から文学館建設の方向が出る。
 1990 井上ひさし講座パート1「井上ひさしの日本語講座」開催。「文学の蔵リレー講演・ふるさとと私」開催、内海隆一郎、中津文彦、三好京三、馬里邑れい、及川和男、星亮一、遠藤公男、森田純、光瀬龍、志賀かう子の各氏が五回にわたって講演。
 1991 『言海』完成百年記念事業実行委員会を組織し、全市的な取り組みとなつた。「ありがとう『言海』講演会」、「大槻文彦と『言海』展」、記念シンポ「言葉と日本文化」と丸谷才一、大野晋、大岡信、高田宏の各氏による講演を開催。
 1992 井上ひさし講座パート2「井上ひさしの文章学校」や連続講座「一関ゆかりの文学者」などを開催。
 1993 「島崎藤村一関曾遊百年・没後五十年記念事業」を展開。 「藤村セミナー」を3回開催、釣山公園に「木曽五木」記念植樹、記念展「藤村と一関」開催、藤村文学碑「あゝ自分のやうなものでもどうかして生きたい」の除幕式を実施。井上ひさし講座パート3「井上ひさしと読む『賢治の世界』」開催。
 1994 これまでの活動が評価されて、第11回「岩手日日文化賞」受賞。フォーラム 「街づくり−文化からのアプローチ」開催。
 1995 島崎藤村学会全国大会一関開催の大事業に取り組む。プレ行事「心のふるさとを歌う」、第二十二回島崎藤村学会全国大会、「藤村と一関小展」を開催。
 1996 県芸術祭「子どもと読書のつどい」、井上ひさし講座パート4「井上ひさしの作文教室」開催。
 1997 第一回文学散歩「斎藤茂吉記念館とさくらんぼ狩り」実施。「三星」さんと協議、「三星」さんの英断と「千田作」さんの協力で建設候補地が決まる。東北工業大学工業意匠学科山下三郎教授に、「文学の蔵建設構想案」策定を依頼。
 1998 初の「詩の朗読のつどい」を開催。東北工大による「三星」さんの蔵調査。第二回文学散歩「及川和男さんと行く石坂洋次郎記念館と『村長ありき』の沢内村」実施。 『井上ひさしと一四一人の仲間たちの作文教室』刊行(本の森社)、「色川武大遺品展」(一関市主催)に協力、景観フォーラム」(一関市主催)後援。
 1999 第二回「詩の朗読のつどい」開催。色川武大没後十年忌と「阿佐田哲也を偲ぶ麻雀大会開催。第三回文学散歩「三好京三さんと行く太宰治のふるさと津軽と三内丸山縄文遺跡」実施。
 2000  第四回文学散歩「浜田広介への旅」実施。『子ども時代は心の宝庫』を完成し配本、募金活動を開始。「詩の朗読と合唱のつどい」、「谷川俊太郎『子どもの宇宙』対談と朗読と合唱」開催。こまつ座 「父と暮らせば」一関公演共催。
 2001 「ブックプレゼント贈呈式」四十四施設八十八万円。金子兜太講演会「加藤楸邨を語る」開催。第五回文学散歩「高井有一の角館へ」実施。「ふるさとづくり賞振興奨励賞」受賞。
 2002 新潮文庫「井上ひさしと一四一人の仲間たちの作文教室』刊行。第六回文学散歩「島崎藤村の仙台」実施。「島崎藤村文学碑のつどい」開催。
 2003 定期総会で、独自のギャラリー設置の方向を決め、検討に入る。こまつ座「兄おとうと」一関公演協力。
 2004 色川武大没後十五年法要・「阿佐田哲也を偲ぶ麻雀大会」開催。幹事会で「文学の蔵ギャラリー」設置案確認。

 文学の蔵設立委員会
文学の蔵設立委員会事務局  〒021 一関市田村町5-42
 佐藤晄僖さん
 電話 0191-26-1040 
設 立 平成元年12月
代表者 及川和男さん 作家
設立目的 「文学の蔵」を建設し、一関地方ゆかりの文学者を顕彰しながら、文学や言葉を切り口とした各種行事の開催を通じて、精神文化の高揚、いわば心の街おこしに貢献
活動内容 研修会,実践活動等,会報の発行