
渓流釣りをテーマに、十四編を収めている本書は平成八年末に刊行されました。著者の村田久氏は一関在住で、広い分野で活躍しています。渓流釣り、作家活動、そしてカバー写真にみられるように写真撮影と、本書からだけでも多彩な活動分野の一端をうかがい知ることができます。そこから生まれる幅広い人脈は、「<序>文の力」でベタほめの推薦文を書いている人が井上ひさし氏であることからもわかるとおもいます。まず「<序>文の力」の一節を紹介しましょう。 「なんといっても、文章がいいのです。とりわけ、自然描写が素晴らしい。足下で踏みしだかれる落ち葉からふっと立ち上がるにおい、渓間の木々の葉のざわめき、そのときそのときの渓流の水の温度のちがい、木の枝からこぼれ落ちたブナ虫を荒食いするイワナの群。・・・そういった自然の大事な細部が平明に、そして的確に捉えられ、(略) ・・・これではあんまりほめすぎかしらんと少し不安になってまた読み返してみましたが、なんど読んでもやはり文章がすてきで、村田さんと知り合ったことがたいへんな幸運に思えてきました。」
本書の舞台は岩手県の自然で、手つかずの自然が破壊されていくことに対するいらだちや悔恨が行間から立ちこめてきます。
とは言っても、井上ひさし氏がおっしゃるとおり、美しい自然描写が随所に見られ、読んでいるうちに自然の大地に飛び出したい気持ちにさせたりもします。ちょっと紹介してみましょうか。次は「赤いイワナ」の一節です。 「――磐井川流域には、かっては至る所、深山に花咲く淡い紫色のシラネアオイ(地元では山ボタンと呼ぶ)の群落があった。それも、岸の斜面にあふれるほどの、おびただしい数からなる群落を見ることも珍しくなく、中には今ではめったに見られない白い花のシラネアオイが何本か混じっていることがあった。」 「新緑のブナ林の中で花ひらくシラネアオイはブナ林を代表する美花と言っていいでしょう。それが連綿と山峡に咲いているというのですから行ってみたくもなるではありませんか。 (一関市 岩井憲一) 「底なし淵」紹介 フィッシング・シャーマン(fishing shaman)の予感 (衣川村 渡辺清文) 柳田国男の『遠野物語』の三話にこういう話がある。
「山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛といふ人は今も七十余にて生存せり。この翁若かりし頃猟をして山奥に入りしに、はるかなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪をくしけづりてゐたり。顔の色きはめて白し。不敵の男なれば直ちに銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。そこに駆け付けて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。後の験(しるし)にせばやと思ひてその髪をいささか切り取り、これをわがねて懐に入れ、やがて家路に向かひしに、道の程にて耐へがたく睡眠を催しれば、しばらく物陰に立ち寄りてまどろみたり。その間夢と現(うつつ)との境のやうなる時に、これも丈の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かのわがねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち睡りは覚めたり。山男なるべしといへり。」『底なし淵』にもこの物語を思い起こさせる話がある。「遠野郷附馬牛」と題された文章の一節を引用しよう。 「腹わたを取り除いたイワナを再びビクに収め、手と顔を洗ってから岩に腰を下ろし、握り飯をかじり、持参のお茶を飲んだ。やっと人心地がついて、岩陰の窪みに身を横たえた。昨夜の寝不足がたたったのか、しきりに睡魔が襲ってくる。どうにも我慢しきれずに、リュックサックを引き寄せて枕にし、どんよりとした空を瞼に感じながら寝入ってしまった。 ふと、目がさめた。渓あいに白く霧がたちこめている。まとわりつくような霧に包まれて、目がさめたようだ。衣服がしっとりと濡れている。うすら寒さにブルッと体が震えた。一体、どのくらいの時間、ここで眠っていたのだろう。」 (村田久著『底なし淵』p106) この睡魔の誘いにより著者はこの後遠野物語にも似た不思議な体験をする。森深くに咲くフシグロセンノウの幽かな艶に似た余韻を読者に残す作品である。その体験をここで要約してしまうことをためらわせる著者の筆力を実際にゆっくりと味わっていただきたい。 村田氏の文章のうまさについては井上ひさし氏が序文でふれているとおりである。そして、そのうまさは美辞麗句やレトリックというたぐいのものとはまったく異質である。 この本は十四のエッセイからなってる。そのひとつを読み終わる毎にアンビバレント・二律背反と呼ぶに相応しい心の動きが訪れた。次も今晩のうちに読んでしまいたいという誘惑と、否、いま読み終えた一つの話をゆっくり一夜のまどろみとともに反芻しようという声、そして残り少なくなる本の頁を惜しむ気持ち。 彼の文章の魅力は彼の感性のもつ独特な包容力によるものであると私には思える。「自然」と呼ぶよりももっと深い、樹々や水の流れや生き物を産み出している、何かもっと本質的なもの。その存在に共鳴する彼の感性と、それをこともなげに言葉に定着させてしまう彼の筆力が我々を一挙にイワナの棲む山深い渓流に臨場させてしまう。その森の精霊に感応する彼の感性は単なる釣り人・フィッシャーマン(fisherman)の域を越え、シャーマン(shaman)的素質を感じさせる。彼はいわばフィッシング・シャーマンfishing shaman)、略してフィッ・シャーマン(fish・shaman あるいはfishaman )と呼べる人だ。そして森の精霊たちは彼を時として睡魔へと誘い、彼の魂との交流を楽しんでいるかのようだ。 彼がイワナを釣りに行くとき、彼を急き立てているのは単なる漁果ではなく、イワナという生命体を産み出し、産み続けている森という巨大な生命複合体との交感衝動ではないか。命に共鳴する命の衝動。渓流の奥へ奥へと彼が溯るのは世間の喧騒から逃れようとするためではなく、身をむき出しの森にさらし森の懐に回帰し、かつて岩手の山々に棲んでいた山人に成るための一つの行(ぎょう)ではないのか。シャーマンが供物をささげ儀式を執り行い自然界のある種の存在と交流するように、彼はイワナの命を求め、食らい、自らの血肉と一体化させてしまう。その時彼が味わっているのは単なる一匹のイワナの肉ではなない。彼が堪能しているのは、イワナというひとつの生命結晶体を析出させている、むせ返るほどに豊かな生命の飽和水溶液の全体である。命と命の共鳴する愛情交歓。 本の標題「底なし淵」とは渓流に穿たれた深い水辺、その森の命の深みのことだけではない。それは彼の胸にぽっかりと穿たれた底知れぬ深淵、森の命への思い、命と命との共鳴腔のことでもある。かつて森と共に生きていた山人の記憶。時の流れにより失われた命の記憶。失われた感性。そういった命の息吹がふつふつと湧きのぼってくる無底の深淵を胸にいだきつつ、彼はまた森の命深く渓流を溯り、命と命の交歓を楽しんでいることだろう。願わくば、この交歓録が一人でも多くの読者を得て、穏やかに、しかし確実にわれわれの暮しが森の命と共存する方向へと向かっていきますように。 <渓流ライブラリー 第3巻> 著 者 村田 久 発行所 朔風社 東京都文京区関口1-35-20 TEL 03(3202)1732 FAX 03(3232)9155 |