収穫したサツマイモ  左から二人目が立花珠美さん
 9月25日、植林協力隊26名のバスはタービンチヤガン (モンゴル語で地獄の砂漠)に入った。沿道は流動砂丘の連続になり、それまでは砂漠との遭遇への興奮でおしゃべりしていた人々も、窓外の風景に目をこらし息をのみ沈黙してしまったが、やがて緑の蘇生した地帯にくるとおしゃべりも蘇生した。 3年前、1995年の四次隊で同じ道を通ったことのある何人かは、景色が変わって砂漠らしくなくなつたと隣の人に話している。

 活着率は90%
 現地政府が立てた″家庭生態経済圏示範点″には家族農場の基準図と「脱貧致富」計画が書かれている。1998〜2000年で2300戸を建てるという。20キロの沿道は7ヘクタール区画の森林農場が連続し、防風林として植えたポプラは90%活着で、5年前の活着率30%に比べ嘘のような成長ぶりである。命令や賃稼ぎではない″自分の植林″の違いでもあろうか。

 1994年4月、NHKドラマ「大草原に還る日」のモデルとなった戦争残留孤児、立花珠美さんの住む庫倫旗を訪れ、彼女とその教え子たちと砂漠植林緑化を始めて5年がたつた。

 このドラマは、1945年8月14日、敗戦の満州から日本へ逃げるべく徒歩移動中の老人婦女子1300余名が、ソ連軍戦車隊に惨殺された葛根廟事件で生き残った七歳の少女の半生をたどるものだ。現地人に助けられ極貧の中で育ち、大学卒業後、教師となった。日中国交回復後、徳島市の実兄に会い日本永住を勧められたが、文化大革命の嵐でも、日本人の彼女をかばつてくれた中国の人々への報恩のためにも、貧しい生活の砂漠化草原に帰り、生涯を辺地教育に捧げているという物語。中国でも放映されて感動を呼んだものである。

 森林農場作りは、それまでの日本農業、林業と中国西部の砂漠での植林経験を生かしたつもりでも、試行錯誤の連続であった。しかも、現地には社会主義体制の欠点となった「皆の責任、個人の無責任」といった風潮があって、指示されたことはやるが、生き物である植物への自発的配慮や工夫が少ないのには、こちら側のストレスがたまった。

 それでもモンゴル人の小学生たちと安代の舞(日本の盆踊りに似ている)を踊り、植林し、一緒に弁当を食べ、満天の星を見て、包(円形の住宅)に泊まると、また元気が湧いてくるから不思議だ。この調子だったら2020年まで4000ヘクタールの流動砂丘を借り、緑化(モデル農場化)して返す約束は実行できそうだが、悩みの種は資金である。

 4モデル農場で成功 
 毎日缶ジュースを飲んだつもりの100円貯金で毎年四万円を送ってくださる長岡市の小川さん、現地に行けなくなったからと毎年10万円を送ってくださる仙台の鈴木さんなどたくさんの方々、植林協力隊に参加して汗を流すだけでなく各自4万円の苗木代を寄付してくださった358名のご協力と外務省、国際ボランティア貯金、環境基金、緑の募金の助成をいただいて、四つのモデル農場に150万本ほど植え、100万本が保存、成長中である。モデル農場内の低地に作った水稲は10アール当たり400キログラム、サツマイモの栽培も成功し、小鳥が巣を作り、野ねずみが増え、キツネが棲み着き、狩り禁止の看板を立てるまでに生態系が生き返った。これを見た元気な地元民たちも「これなら自分でもやれる」とばかりに、昨年から300戸が農業銀行から金を借りて植林を姶めた。

 しかし、これらの成功しっつある公道沿線の農業作りはいいが、公道から離れた条件が不利な土地には極貧の農牧民がたくさんおり、彼らこそ植林緑化が最も必要な人々なのに、苗木を買うゆとり、借りる力もなく、自治区の改革新政策にのることができないでいる。

 自治区と相談中の、ホルチン砂漠(庫倫旗もその一部にある)500万ヘクタールの中で100万ヘクタールの緑化計画は、300億円(ヘクタール当たり、たったの3万円!)の資金で10万戸、50万人の農牧民の生活安定は確実であり、地球温暖化も確実に緩和できるのに。(左写真 現地での植林)

 ところで10月1日、21次植林協力隊26名は、北京や自然森林に囲まれた万里長城なども視察して帰国した。

 来年5月にも「植林と田植えとモンゴル小学生との踊りを楽しみたい」という人の申し込みがあり、「北京での観光は不要、もっと木を植えたい」という人、「忙しいので4日間の休みだけで植林したい」という人など、様々な形で活動への参加を希望する人がいる。12月に研修のため日本に来るモンゴル人の現地スタッフと相談しようと思っている。


沙漠ボランティア協会  菊地 豊  
岩手県胆沢郡衣川村大坂51
fax 0197-52-3923


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